終戦記念日

私の母の誕生日の2日後が太平洋戦争に突入したその日、両親にとっての戦争の記憶は自らの成長の記憶と綿密に結びついていて、これまでも何度となく話を聞いてきましたが、活字として見るとまた私もまた新たに語り継がなければと思わされます。

父の家族は戦時中、そこに行けばユートピアがあるかのような政府の扇動により、より豊かな開墾地を求めて満州へ渡りました。


帰国前に1年間ロシア軍によって足止めを食らった影響で、ロシア語が少し話せるという父に羨望のまなざしを向ける幼児期の私。思えばあの頃から外国語習得への憧れのようなものがインプリントされたかなと思わなくもありませんが。


帰国時には高価なものを隠し持っていないかと女性は樽をまたいでジャンプさせられたんやで。


乳飲み子だった妹は、おかはんのお乳が出んようなって、いよいよ栄養たりんようになってな、ひきあげていく途中、亡くなる人は最後どす黒いうんちを出すんや、妹もそれが出てな、もうあかんいうときになんとかたどり着いてな、命はとりとめたけどずっと体は弱いのはあのせいやったかもしれんな。


この記事には書かれていない、父から聞いた数々の、ほんとうに文字通り過酷な話が頭をよぎります。


母の実家は終戦の数日前に空襲で焼かれました。


戦時中は大日本帝国が躍進しているやなんやいう記事ばっかりやったけどな、もうあかんねやろなっていうのはわかるわな、そら暮らしむきがどんどん悪なるし、えらい若い子が駆り出されるし、包丁も鉄鍋も全部とりあげられてな、武器にするのにや…。

でもそれを口にできる雰囲気ではなかったわ、口にすれば特高警察に連れて行かれるもん、急におらんようになる人おるもん、そんなんでみんなわかってたけど言えなかったんよ。


そう話してくれた今は亡き祖母の言葉をも思い出しながら迎えた戦後78年。いつまでもこの戦後の数をカウントしていけるよう、決してこれが振り返れば戦前だったね、ということのないように努めねばなりません。戦争の影で苦しまされるのはいつも無辜の市民。日本にいまある言論の自由は当たり前のものではない。その自由を享受し、戦争の記憶を語り継がなければ。


そんなことを考えた2023年8月15日です。


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